CanCam専属モデル・佐々木莉佳子が、2023年も生まれ育った出身地・宮城県気仙沼市に帰ってきました!
「みなと気仙沼大使」として地元の観光大使を務め、気仙沼をこよなく愛する莉佳子。ゆったりと流れる空気、あたたかい人たち、美しい風景、美味しいもの。終始ニコニコ楽しそうなその表情からも、どれだけ素敵な場所かが伝わってきます。
2011年に発生した東日本大震災からまもなく13年が経とうとする今、復興は進み、また新たに歩みを進めています。
歴史と新しさが共存する街は、旅に訪れても写真に残したくなるような場所ばかり。少しだけ莉佳子とともにお散歩しながら、気仙沼の街を見ていきましょう。
気仙沼駅や高速バス乗り場からもアクセスしやすい、気仙沼の中心地・内湾エリア。潮風を感じながら歩いているだけでも気分はウキウキ!「お魚いちば」や、おみやげ屋さんなどがある「海の市」など、観光スポットが集まっています。
そんな莉佳子とめぐる気仙沼散歩、今回の目的地は…「インディゴ気仙沼」。ファッションを通して街の人々を元気づけ、気仙沼の女性たちの課題を解決し続けてきた藍染工房です。
花王が特別協賛する「ネクストとうほくアクション」という、東北のみなさんとともに未来を考え、未来につながる活動を推進していく取り組み。今回はその一環として、現地に縁が深い大学生の皆さんと共に、CanCamがピックアップした東北の素敵な企業を紹介していきます! 気仙沼(宮城)、盛岡(岩手)、そして南相馬(福島)をめぐる全3回の連載の初回に訪れたのは「インディゴ気仙沼」。
インディゴの原料となる藍の栽培、顔料の抽出、染料づくり、染色を一貫して行い、畑から手渡しできる距離感で、安全性と心地よさを大切にものづくりを行い届けています。
気仙沼の海を象徴するような、天然インディゴで染められた美しいブルーのストールやTシャツが人気です。莉佳子着用のストールのターコイズブルーは、「緑の真珠」と言われる、気仙沼・大島の海の色に見立てたもの。染料となる藍を、気仙沼の畑で自らの手で育て上げています。
コットンに、竹からとれる繊維をごくわずかに混ぜた生地で作られたストール。軽く、しっとりと柔らかな手触りが特徴。天然インディゴには抗菌作用やUVカット作用、保温性など美しさだけでない実用性も備えています。
そんなこだわりのものづくりを行う会社を立ち上げた藤村さやかさんのお話を、莉佳子と、宮城県内の大学生・門間さんとともにうかがいます。
●宮城学院女子大学4年 門間由芽奈さん(写真左)
2001年、宮城県仙台市生まれ、秋田県秋田市出身。転勤族の家族のもとで育ち、秋田県・岩手県・宮城県と転々としながら育ったことをきっかけに、大学で地域創生イベントやコミュニティづくりに携わる。来春から通信業界にて、ICT技術を活用した地域の課題解決に関する会社に就職予定。
●インディゴ気仙沼代表 藤村さやかさん(写真中)
1979年、アメリカ生まれ。IT企業での営業を経て、28歳で食のPR会社を起業。6年経営後、結婚を機に気仙沼市に移住。第1子出産後、育児中の女性たちの雇用創出をすべく「インディゴ気仙沼」を立ち上げる。
●CanCam専属モデル 佐々木莉佳子(写真右)
2001年、宮城県気仙沼市生まれ。震災を機に立ち上げられた気仙沼のご当地アイドル「SCK GIRLS」を経て、現在はハロー!プロジェクト内の女性グループ・アンジュルムのメンバーとして活動。みなと気仙沼大使として、気仙沼の魅力を広める。
インディゴ気仙沼に到着すると、藤村さんが畑で作られた藍のお茶を出してくれました。「板藍根」として漢方の原料としても使われ、台湾などでは日常的に飲まれているお茶。香ばしさも魅力で、たとえるなら「とうもろこし茶」に近い風味。莉佳子も「美味しい!」と飲んでいました。
インディゴ気仙沼の工房が入っているのは、昭和8年に造られた歴史ある建物。もともと味噌や醤油の製造元「平野本店」としてスタートした、重厚なたたずまいの古民家です。
藤村さん 私は11歳までアメリカに住んでいたこともあり、古民家がセクシーに感じられて。この建物が空き家になっていると知って、ぜひ、とお話を進めて工房として入居しました。
莉佳子 セクシー! 私にとっては日常の景色だったので、輝いて見えるのが羨ましい。街の見方が変わって面白いです…!
門間さん 神棚がすごく大きいのが特徴的ですよね、私、この形初めて見ました。
莉佳子 気仙沼の一軒家だとこのくらいのサイズの家が多いかも…じいちゃんばあちゃんの家も同じような神棚があったから、「あぁ、落ち着くなぁ〜」と思いました。
——門間さんは、気仙沼に来たのは今回が初めてですか?
門間さん いえ、震災があった街がどうなっているのか、この目で見て知りたくて、2012年〜2013年くらいに、家族と来ました。当時小学生の子どもながらに震災の物凄さを目の当たりにして驚いた記憶があります。今日は約10年ぶりに来たのですが、気仙沼が明るい街になったのを感じました。
莉佳子 特に震災の1〜2年後と現在だと、全然違いますよね。私は震災前の気仙沼も、今もめっちゃ好きです。見た目が変わろうと、変わらないものは絶対にある。それに、震災があったことで新しく生まれるものが増えました。これまでなかった橋がかかったり、仙台から気仙沼まで早く行ける高速道路ができて、1時間短縮して行けるようになったり…。大きなきっかけがないと作れなかったと思うので、マイナスなことだけじゃないな、と思います。
——藤村さんの目から見ると、気仙沼の変化はどうでしょうか?
藤村さん そうですね…私たちに求められるものも、復興と同時に少しずつ変わっていきました。会社として、藍による染色サービスを提供しているのですが、震災から2〜3年経ち、少しずつ皆さんの心の整理がついてきたタイミングで「遺品を染めてほしい」という依頼を多く受けました。「ヘドロの中から見つかった遺品が、何度洗っても汚れが取れない。藍で染めることで、もう一度蘇らせることができるんじゃないか」と。「もしよければ、一緒に染めてみませんか」と提案をして。きれいに藍で染まったご遺品を見て「本人も喜んでいる気がします」という声や、藍染したご遺品の帽子を身につける姿…さまざまな光景を見ました。
藤村さん 震災から4〜5年経つと、仮設住宅から、一般的なマンションと同じような「災害公営住宅」に移る方が増え始め、そのタイミングでストールをお買い求めに来るお客さんが増えました。お話をうかがうと、仮設住宅にいる間は、みんな息をひそめて暮らして、人様の目がある手前、キレイな格好もしづらい。そう思って暮らしていた方に「でも私ね、おしゃれ大好きなの。災害公営住宅に移ることになったから、ようやく好きな色を身につけられる! インディゴさんのストールがずっと欲しいと思っていたから、買いに来たのよ」と言われて、ハッとしたり…。
藤村さん 私が2013年に初めて来て、縁あって嫁いだ気仙沼の南町は、6mの津波が来た地区です。当時のその地区は、ヘドロをかぶって、残った建物もどこか灰色がかっていて、看板もねじれ、でもそれを直すお金もなかった。「色がない街だな…」というのが当時の印象です。けれど、復興が進むにつれて新しい建物ができて、そこに色が乗って。人もファッションで色を取り入れるようになって。「あぁ、生きるのに、色って必要なんだ」と思いました。
莉佳子 ……それ、まさに思っていたことです。震災があった当時の気仙沼を見ているので、帰ってくるたびに色が増えてると思って…。藤村さんのその言葉、しっくりきました。
——藤村さんは結婚を機に気仙沼に移住したとうかがいましたが、まず移住から起業までの流れをお話いただけますか?
藤村さん はい、28歳のとき東京で食のPR関連の会社を起業し、6年経営したところで「やりたいことはやりきった」と感じて。34歳、次に何をしたいか考えたら「結婚して、子どもを授かりたい」でした。2013年に訪れた気仙沼で、飲食店で隣り合わせた方と偶然の出会いがあって「お付き合いしてください」ではなく、「結婚してください」から始まって、とんとんと…(笑)。「東京でやりたいことを全部やりきって、20年後に俺のところに来てくれるのでもいい」と言ってくれたのですが、移住を決意して、事業譲渡し、籍を入れすぐに子どもを授かりました。
莉佳子 新しい…! 気仙沼に引っ越してきて、どうでしたか?
藤村さん 震災復興真っ只中の気仙沼は、産業再建や宅地整備などの事業から優先的に施策が進められていて、子ども向け施策がほとんどない状況でした。「ここで子育てをするのは工夫が必要だ」と、被害が少なかった市外に引っ越していった家族も多く、子育て支援施設も閉鎖が相次ぎ、子どもを遊ばせる場所も減っていく…。車社会で歩いている人も少ない。それでもどうしても知り合いを作りたくて、街中で子連れのママさんを見かけたら「引っ越してきたばかりなんですけど、お話しませんか」と、話しかけていました(笑)。
莉佳子 すごい!
藤村さん 最初は3人程の繋がりから広がっていって、いわゆる子育てサークルができました。「震災をきっかけにおむつ替えができる場所も授乳場所も変わったので、マップがほしい」「リフレッシュできる場がほしい」とアイディアを出し合い、託児つきでママと子ども向けのイベントを年80回ほど開催して。ありがたいことに次第に行政からも声がかかるようになりました。「新しい市立病院を作るにあたり、子育て層が利用しやすい病院にするため、病院関係者との座談会をしませんか」など、市長に直接困っていることを訴える場所を作ったり。
莉佳子 めっちゃすごい…(拍手)。
藤村さん でも、ふと「ママのリフレッシュ企画をこのままやり続けるのかな?」という話になったとき「いや、私たちが困っているのって、いちばんは稼ぐ場所だよね」という話になりました。気仙沼に来てリアルに実感した課題が、賃金格差です。私、ずっと自分のお金は自分で稼いでいたし、そのあたりのことを調べたり準備したりすることなく、住む地域を変えてしまったんです。が、移住してからいざ調べてみると、当時は宮城県全体で「40代共働き夫婦の平均世帯収入が25万円」という県のデータがあって。「車検のお金がない、キャッシングに頼ろうか」「家電が故障したけれど買い替えられない、譲ってもらえないだろうか」という話をしょっちゅう聞き、カルチャーショックを受けたのを覚えています。
——藤村さん自身もやはりその問題に直面することがあったのでしょうか。
藤村さん 創業する前には、就職の道を探っていた時期があります。会社訪問をする中で、どうしても壁を感じたことはありました。8年も前のことなので、今は状況も違っていると思いますが、提示された給与が押しなべて額面13万円、手取りで8万円でした。35歳中途であっても、女性の場合、これまで培ってきた経験を活かせる雇用の仕組みがない。地方ではその仕組みを今から創る必要があるのだと、構造的な課題が見えた瞬間でした。
当時の気仙沼では、女性が働く選択肢は水産加工会社や飲食店、パソコンスキルがあれば人気の事務。それでも事務職は求職者に比べて求人数は少なく、ミスマッチがたびたびニュースになっていました。都心部にいた頃は、仕事やお金、情報、人脈に、息をするくらい自然にリーチできていた。でも、地方、その中でも被災地となると、生きていく上での選択肢はどうしても少ない。ここでは何もかも自分たちで作る必要がありました。子ども向けの施策も、子育てする親たちへの施策も十分に整っていない環境の中で「子育てをしながら、きちんとお金を持って帰れる職場を、当事者の自分たちが作るしかない」と、ママ3人で話し合ったのがインディゴ気仙沼の始まりです。
門間さん 仕事を始める上で「インディゴ」を選んだ理由は何ですか?
藤村さん まず、子育て中の女性が、少ない時間を持ち寄ってお金を稼ぐのであれば、粗利率が高い仕事にしないといけない。薄利多売の道を選ぶと、現場が消耗してしまいます。単価が高いものを、希少性を持たせて、ブランディングして売るのがこの地域に合っているのではないかと仮説を立てました。「気仙沼ならでは」ということで、まず思いついたのが海。そして、海といえば青。「ブルー」を想起しやすい街です。
門間さん 確かに!
藤村さん 始めるなら、10〜20年やって「いや〜楽しかったね」と解散するプランは、私たちの頭にありませんでした。「藍染め」は、100年前にもあって、今も存在する仕事で、創意工夫次第では100年後に気仙沼に定着する産業になりうること。そして何より、経験がない方でも、3か月ほどの研修期間を経れば続けていける「手しごと」であったこと。もうひとついいことがあって。最初に私が藍染体験をしてみたときのことです。生後5か月になる息子をおぶったまま染めていたら、ちょうど眠くなる動きだったのか、すぐに寝たんです。仕事が子守りになるなんて一石二鳥、こんなにお得な話はないと。また、アメリカで育った身としては、東北地方は謎めいた神秘的な地域。その中でも港町である気仙沼で、女性たちがオーガニックの染料を使って生み出す藍染めがとても魅力的で、マーケティング次第では市場に参入できるかもと思うようになりました。
莉佳子 さっき午前中に藍畑に行かせていただいたんですが、みなさんで育てた藍を使って藍染のアパレルを作ってらっしゃるんですよね。
*話の続きは、下記のCanCam.jpをごらんください。
岩手県・盛岡市へ!「うまいビールで食卓をハッピーに!」とモットーに、「地元の人に愛されるクラフトビール」を造り続けて20年、ベアレン醸造所にお邪魔しました。
福島県・南相馬市小高地区へ。この地域は、福島第一原発から20km圏内にあたり、2011年4月に警戒区域に指定されたことで約13,000人の全住民が避難を余儀なくされ、立ち入りができなくなった場所。その「一度ゼロになった地」で、「地域の100の課題から100のビジネスを創出する」というミッションを掲げ、2014年に創業したのが「小高ワーカーズベース」。コワーキングスペース、食堂や仮設スーパーをオープン。
花王が支援する取り組みで、東北の3つの新聞社である「岩手日報」「河北新報」「福島民報」が手を取り合って、東北の皆さんとともに未来を考え、未来につながる活動を推進していく取り組み。現地の高校生・大学生とともに行うプロジェクトや東北に花を咲かせるプロジェクトなど、さまざまな取り組みを行っている。