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フルーツ界の“ハイブランド”を目指して——和歌山・観音山フルーツガーデンが切り拓く日本農業の新たな地平

2026/08/15

人々の「食」の源を生み出す農業は、欠かすことのできない産業だ。しかしその運営を維持していくことは簡単なことではない。農園独自の取り組みや工夫が必要になってくる。

江戸時代から続く歴史を持ちながら、常識にとらわれない経営判断と徹底したこだわりで全国から注目を集める和歌山県紀の川市の「観音山フルーツガーデン」。みかんの大暴落という危機をネット直販の先駆けとして乗り越え、現在は東京・銀座をはじめ全国にフルーツパーラーを展開している。単なる「生産」にとどまらず、周辺農家を巻き込んだ高値買い取りや、若手就農者を育てる独自の仕組みづくりなど、地方の希望となる農業のカタチを切り開く観音山フルーツガーデン。今回は八代目会長・児玉典男氏に、農園の歩みや地方農業の課題、現在の取り組みなどを聞いた。

■江戸から続く老舗農園の「一樹一味」と、妥協なき手仕事の哲学

和歌山県紀の川市の観音山にある観音山フルーツガーデンは、みかんやレモン、はるみ、デコポンなどの柑橘類を中心に、梅や桃、いちじくなど、さまざまなフルーツの栽培を行い、フルーツの六次化として観音山オリジナル加工品も販売している。

観音さまが仰向けに寝ているように見える観音山

同農園では最終農薬散布から収穫まで最低60日以上確保し、防腐剤、防カビ剤、ワックスは不使用。収穫の際は1本1本すべての樹を試食して、「おいしい」と感じたフルーツのみを収穫するというこだわりぶり。摩擦やショックに弱いフルーツを守るため、卵のように扱い、選果機は使わずひとつひとつ手で選別する。そのこだわりを象徴しているのが、『観音山レモン』。防腐剤や防カビ剤、ワックスを使用していない観音山レモンは、“安心安全の象徴”として、果実も苗木も販売している。また「環境にやさしい農業」を目指し、肥料は有機配合。近隣の畜産農家や有機実施農家と協力して堆肥製造場所を作り、地域内で資源を循環し、自家製堆肥の製造している。

観音山フルーツガーデン

同農園の歴史は長い。この地で江戸時代の天保5(1834)年から農園を営んでおり、初代光信、二代目音吉、三代目文兵衛、四代目吉兵衛、五代目長次郎、六代目政夫、七代目政藤と代々受け継がれてきた。明治44年に開墾してみかんを植え、フルーツガーデンをオープン。六代目の時に個人出荷をスタート。昭和2年から近隣のみかんも購入し、内地販売と並行して北米輸出や朝鮮・旧満州などへの外地販売を続け、商標「ヤマチョー」を取得した。また七代目は太平洋戦争終結後に旧満州から帰国。23歳でヤマチョーの農園園主になると、有限会社柑香園を立ち上げた。現在は八代目の児玉典男会長と、息子で九代目・代表取締役の児玉芳典氏で運営している。

八代目・児玉典男会長

農園運営だけでなく、“果物農家のパフェ”として「観音山フルーツパーラー」を和歌山に3店舗、岡山・岡山市、東京・銀座、北海道・登別市に展開している。このフルーツパーラーは、収穫したフルーツを余すことなく、形が悪いものでも完熟して美味しいものを使い、「美味しいフルーツを実際に味わってもらう場所」、つまり「有料の試食の場所」という発想から始まった。

東銀座にある観音山フルーツパーラー

■「パソコンが草を刈るのか」と揶揄も みかん大暴落を救ったネット直販のパイオニア精神

――児玉会長は八代目ですが、農業に従事することになったきっかけを教えてください。

「正直に言うと、若い頃は親の言う通りにこの道に入っただけだった。当時は農家の息子で4年制大学へ進む人は少なかったですが、親や先生の勧めもあって農学部へ行きました。周りが就職活動している時も、自分は『農業をやる』と思っていたから、小さい頃からそれが運命みたいな感じでした。子どもの頃から田畑に触れることが当たり前だったので、自然にこの道に入りました」

――七代目から受け継いだ時はどのように運営していきましたか。

「私が農業をやり始めた時は、卸売市場の単価もまずまずだったのですが、その年にみかんが大暴落しました。当時、うちはみかんしか作っていなかったので、『原価も出ないような状況でどうしていくか』という中で、まず品種改良をやりました。当時は(12月以降に収穫される)晩生(おくて)ばかり作っていたのを、(9月頃から出荷する)極早生(ごくわせ)に一気に変更して。これでなんとか収益を保って子どもたちを大学に進学させられたのですが、卒業する頃にまた大暴落。『このままではいつまで経ってもダメだ、立ち行かない』と痛感し、利益率の高い直販への切り替えを決意しました」

受け継いだ農園を新たな手法で伸ばしていく

転機となったのは、1990年代後半のインターネットの普及。児玉氏は、当時まだ誰も見向きもしなかった「ネット販売」の可能性にいち早く着目。町長に直談判して町でパソコン教室を開くなど積極的に学び、ネット販売を開始した。

「当時は周りの農家から『パソコンが草を刈ってくれるのか』と揶揄されることもありました。でも情報化時代への準備を進めて、帰郷した息子(九代目・現社長)とともにネット戦略を本格化させネット販売を専門にやるようになってから、売り上げがグッと伸びました」

■あえて大反対の銀座へ「みんなが右なら左を向く」 パーラーが生み出す出会いと交流

その後、2021年のコロナ禍に銀座で観音山フルーツパーラーをオープン。農園で収穫したフルーツをふんだんに使ったパフェやフルーツサンドなどを提供している。和歌山の本店と銀座店では全国の生産者を招き、フルーツを食べながら知識を学ぶ教室や、フルーツのカットを学ぶ体験教室など、観音山が培ったフルーツ文化をお客さまに提供する場も作っている。『物』の販売だけでなく、フルーツカルチャーそのものを提供しているのだ。

観音山フルーツパーラーで提供されるパフェ

またジャムやジュースなど加工品も販売。自分用や手土産に購入して帰ることもできる。

ジャムも購入可能

店内で飲食したお客さまには、QRコード付きのカンキツ類を必ずプレゼント。店舗で味を知った人が、QRコードから農園のオンラインショップで購入できるような動線を作っている。

店内利用客にはカンキツ類がまるまる1つプレゼントされる

――銀座でフルーツパーラーを展開しようと思ったきっかけは。東銀座駅や歌舞伎座からも近い良い立地です。

「銀座店のこの場所は、以前米粉のパン屋さんがあったんです。仕事で東京に来た時にたまたまこの上のホテルを利用していて、良い場所だなと思っていました。ちょうどコロナ禍で東京に出店したいと思っていた頃、この場所が空いていてご縁があったのです」

――なぜ和歌山から遠い銀座で開こうと思ったのですか。

「うちの売上の大部分はネット販売ですが、ここはお客さんに直接知ってもらい、試食してもらう『アンテナショップ』のようなもの。銀座から和歌山へ引っ張っていく。また場所柄、外国人観光客の方も多いです。日本独自の『フルーツパフェ』の文化は欧米にはないので、皆さん喜んで食べてくれます。とはいえこの銀座店は最初、私がほぼ独断でやりました。会社の中では大反対。銀座に出すなんて『手が届かない』と思われていました」

――一筋縄ではいかなかったのですね。

「でも私は独りで段取りしました。一等地のこの場所で、当時はコロナの緊急事態宣言下だったにもかかわらず、募集すればアルバイトも集まってくれました。『みんなが右を向いている時は、ちょっと左を見るべき』というのが私の信条です」

社内で反対にあっても銀座店オープンは貫いた

――今日も店舗にはたくさんのお客さまがいらっしゃっています。

「銀座店ができて、いろいろな人と出会いました。アンバサダーも結成して、元ミセス日本グランプリ1位の方や、元キャビンアテンダントの方、山梨の桃農家の娘さんなど、いろいろな方と出会って、皆さんが協力して発信してくれています。私は、生産者の顔が見えるだけでなく、生産者側からも『自分のお客さんがどんなところで、どんな風に食べてくれているか』が見えることが大事だと思っています。このパーラーがあるおかげで、お客さんが喜んでいるのが見える。消費者と生産者のインタラクティブ(双方向)な交流の場。農家ももっと消費者の現場に寄っていくべきです」

――パーラーがあることでリアルな反応が見えますね。

「先ほどの山梨の桃農家を筆頭に、鳥取のスイカ農家、愛知の蒲郡みかん……と、全国の農家とも連携しています。和歌山が不作の時や旬がずれる時に、全国の意欲ある農家さんとコラボして、お客さんに一番おいしいものを届けています。最近は山形県のカフェ運営者と知り合って、あちらのパーラーでもうちのフルーツを出す話が進んでいます。逆に、和歌山にはないラ・フランスやさくらんぼなどのフルーツが向こうにはあるので、それをこちらで出すこともできます」

旬のカンキツがたっぷりのった「旬カンキツの農園パフェ」

この日、撮影用に出されたパフェは「和歌山県産旬フルーツの農園パフェ」、「旬カンキツの農園パフェ」、「和歌山県産びわパフェ」、「観音山レモン農園パフェ」、「和歌山県産梅パフェ(銀座店限定)」の5種類。

「和歌山県産梅パフェ」は銀座店限定

旬のカンキツがたっぷりのっていたり、梅やびわがゴロゴロとトッピングされていたり、とにかくボリューミーでゴージャス。どれも圧巻だ。

「和歌山県産カンキツとキウイサンド」

その他にも「和歌山県産カンキツとキウイサンド」や、みかんジュースの「観音山とろコクみかん絞り」、「みかん農園サイダー」など、農園の素材をいかしたラインナップも豊富だ。

「みかん農園サイダー」と「観音山とろコクみかん絞り」

「私はフルーツのライバルはスイーツだと思っています。生のみかんの売り場は本当に少ない。そんな中で争っていたらダメなんですね。(加工された)スイーツは誰が食べても同じ味。でも、果物は全部個性が(一個ずつ)違う。それをいかに95点から100点の間に揃えていくか。そこがうちの腕の見せどころだと思います。ここ(銀座店)で食べておいしかったら、『次からはネットで取り寄せよう』という流れになる。うちのみかんはデパートよりも値段は高いかもしれないけど、その裏には情報や物語があります。つまり、一本ずつの樹から試食して、美味しいと思ったものだけを選び、選果機にかけずにひとつひとつ手で選別する。だからハズレがないし、食べた時に『おいしい』と思ってもらえる。フルーツ業界の“ハイブランド”を目指したいんです」

■周辺農家とともに潤う「観音山共和国」構想と未来を担う次世代の育成

――農園を続けてきて感じた課題や、地域活性のために取り組んでいることはありますか。

「やはり人材不足や担い手が少ないということは課題です。だからうちでは、自社農園の枠を超えて、地域の農業全体のことを考えています。例えば、うちは『観音山共和国』と名付けていますが(笑)、私が“連邦政府”として販売と指導を担い、近隣の農家さんたちが“州知事”として、うちのノウハウで最高のものを作る。それを市場の2倍の価格で買い取る。そうすれば、若い後継者も育つでしょう? 去年のみかんも、こちらのノウハウ通りに味見して収穫してくれたものはやはり美味しいので、市場の2倍の単価を払いました。これは大きな地域貢献だと思っています。雇用も登録ベースで100人ほどいます」

「観音山共和国」として地域全体で成長していく

――自分の農園だけでなく、周囲の農園も活気づきますね。一方、農業は新規参入のハードルが高いように思います。

「新規就農したい若い子にも門戸を開いています。まずは2年間トレーニングを行い、その間は国からの手当も出ますが、うちでも毎月3万円ずつ積み立てて、卒業する時に72万円貯まっているようにしています。そのお金で、トレーニング後すぐに農機具や肥料を買えます。うちで学んだ子には『のれん分け』を行い、うちの周囲の農園で即戦力としてすぐに動けるので、その年から収穫・販売ができるようになります。今は20人くらいの“州知事”がいますね」

――学んですぐ独立して、きちんと収益化できるのは安心です。10年後、20年後の日本農業の理想像はありますか?

「中部圏、愛知県あたりはトヨタ自動車があるから、失われた30年の中でもなんとか持ちこたえてきた。農業も、個人農家が力をつけるか、あるいは法人を大きくして『合衆国』的に広げていくかだと思います。 農協のやり方を批判するわけじゃないけど、後継者を育て、地域に貢献していきたい人にとっては、個人農家も大事だし、トヨタ自動車のような(核となる)法人農園も大事。トヨタは子会社もいっぱいあって利益を上げていますが、農業分野はそこが遅れているから、うちが目立つだけ。地域で頑張って、常にブレーンを育てていかなければと思っています」

“観音山共和国”として地域全体で活性化していく

自らの農園を潤すだけにとどまらず、「観音山共和国」という大きな枠組みの中で地域全体を巻き込み、若手就農者へ確かな道を切り拓いている観音山フルーツガーデン。「フルーツ界の“ハイブランド”を目指す」という児玉会長の言葉の裏には、最高の品質を追求する職人としての誇りと、地方の農業を「憧れの仕事」に変えて次世代へバトンを渡したいという強い思いを感じた。


常識を疑い、人と違う道を選ぶことで地域に新たな風を送り続けるその挑戦は、人口減少や担い手不足に悩む日本の地方・地域にとって、明るい未来を照らす確かな道標となるはずだ。

児玉典男(こだま・ふみお)
昭和47年就農。三重大学農学部農芸化学科卒。子どもの頃から父親の果樹栽培にかける情熱を見て育ち、大学は農学部を選ぶ。卒業後に即就農し、以来、柑橘栽培に没頭する。2018年、果樹園内に観音山フルーツパーラーをオープン。2021年には銀座店も開店し、和歌山の地場産のものを使った“物語のあるパフェ”を提供している。和歌山通訳ボランティアクラブ発起人・初代副会長。和歌山有機認証協会発起人・初代理事。第10回農業情報ネットワーク全国大会事務局長。和歌山農業情報利用研究会事務局長総合老人福祉施設「高陽会」評議員(現職)などを務める。

(取材・文/コティマム)